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写真で見る蘇東成の歩み

14歳の頃(1967)、洪懿祥老師の唐手武道館に入門した時の写真。
蘇氏の父君と洪先生は同じ町に住む義兄弟の仲であるので、蘇氏入門の当初から洪先生に可愛がられた。

蘇氏は4年間日本の小学校で学んだので日本語を話していた。イジメに対する配慮から、洪先生に早朝の米軍クラスに入学させられた。当時はベトナム戦争(1960―75)のさなか、洪道場の米軍クラスには多くの米軍が練習に来ていた。
写真は先輩であるグリーンベレーの壮行会の1コマ。(左1はヘリーが撃墜され重傷、左2は戦死)。
蘇氏は洪道場の近辺に住んでいたので、毎日道場や事務所に入り浸り、武術で遊んでいたので上達が早く、約半年で写真左のように変化した。
1969年頃、米国ブラックベルトマガジンの取材で、先輩とポーズを取る蘇氏。

撮影のため始めて洪老師に教えて頂いたが、普段は道場の先輩(師兄)に基礎的な教えを受ける。2年ぐらい経ってやっと洪先生の手解きが受けられた。


ブラックベルトマガジンの取材だからか、洪先生に黒帯を付けろうと言われ、その後また白帯に戻された。

15歳の頃(1968)、台北県の「林口米軍基地」で多人数組手の行っている蘇氏と先輩たち。
反撃して来る先輩に対し、身構えをしている蘇氏。
洪道場は「駐台米軍北部基地」武術格闘の委託道場であったので、米軍練習生の会費ははドル計算で米軍基地から支払われていた。よって、よく各基地や軍官倶楽部などで演武することがあった。
洪道場の入門者は基礎体力養成のため、1−2間は年少林拳を学び、卒業後始めて形意拳を教わることが出来る、
当時、蘇氏の最も得意な型は「北派羅漢拳」であった。1967―8頃、日本の著名な武術研究家、松田隆智氏が始めて台湾に来たときに、蘇氏からこの型を学び、帰国後日本で「北派羅漢拳」の本を出版している。
写真は飛び蹴りの演武を行っている蘇氏。
1969 洪懿祥老師が日本を訪問し武道館で演武する。洪先生の留守の機会に「台北市 第一回運動大会国術擂台賽」に参加し、4回戦の末第二位に入賞する。
写真は南少林拳の選手と対戦の一コマ(左側は蘇氏)。
当時の擂台には年齢制限の規定はなく、蘇氏は16歳にして強引に擂台に参加した。

1970 「台北市第二回運動大会国術擂台賽」で第一位となった蘇氏をテレビのニュースや新聞で取り上げられる。
「17歳が擂台賽を制す」。
「黒馬現わる。擂台の天才児」。
「3年足らずで擂台を制した青少年?」

1970年、洪道場の擂台制覇チームは、「北部七県市国術擂台賽」で団体優勝を果たす。3日に渡る激戦で消耗しきった選手たち。
写真は洪老師と道場の先輩たちに囲まれる蘇氏。
洪道場の擂台制覇チーム(常時5人)は、以後5年連続の団体優勝を果たし、洪懿祥の「五虎将」として、各主催協会から招聘されることになった。

1971 「台湾省第四回全国運動大会国術擂台賽」で第二位に入賞。
対戦相手は「無敵タンク」のニックネームを持つ、台湾原住の高砂族の戦士、18歳で弱力の蘇氏を撃てず、遊撃戦でいいように翻弄されて悔しがる相手。写真右は蘇氏。
1973 「第二回蒋介石杯国際国術擂台賽」で第一位。香港や東南アジアの選手が参加する国際大会で、前チャンピョン(キックボクシングの選手)を破り、決勝戦で台湾海軍のボクシング・チャンピョンと対戦し、大差をつけて優勝する。
この擂台賽を最後に(20歳)日本に移住する。
1973年の「第二回蒋介石杯国際国術擂台賽」、台湾海軍のボクシング・チームが中国武術は軟弱であると批判し、チャンピョン・チームの「海鵬隊」を繰り出し擂台の制覇を公言したため、新聞などで大論戦となり、擂台賽で決着つけることとなった。論よりも証拠。海軍ボクシングのチャンピョン・チームは洪道場に完敗し、「五虎将」は5度目の団体優勝を果たす。
蘇氏は左2、右1は後輩の羅徳修氏(八卦掌
など欧米で有名)。

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写真1:1970 「台北市第二回運動大会国術擂台賽」で第一位の賞状。

写真2:1973年 「第二回蒋介石杯・国際国術大会擂台賽」で第一位の賞状。.

写真3:1969年「台北市第一回運動大会国術擂台賽」 第二位。

写真4:「当代台湾国術史編纂」、第一集(1949−1976)、張伯夷著作。
   
どの業界も経歴の詐称や証明の偽造はよくあること
である。文献史料などで確認することが大切である

1976−1978年頃。蘇氏は国士舘の夜間高校を卒業し、拓殖大学の「中国拳法愛好会」で2年指導した後、日本の埼玉県川越市の「中華民国唐手武道館日本総本部興武館」で館長代行をつとめる。
館長の意向で公開組手が行われ、空手道、少林寺拳法、日本拳法、キックボクシング、                       喧嘩自慢、機動警察などと組手を余儀なくされた。その発奮して著作を学び「中国拳法の秘法」の出版を機に当道場から離脱する。
「興武館」の時代、洪老師は定期的に日本を訪れ、よく沖縄や京都などに随行した。お陰で沖縄剛柔流空手.との交流経験を多く得られた。
また、1970年前後。琉球大学空手部の夏季合宿は、台湾の洪道場で行っていたので、日本語が堪能な蘇氏は、通訳などをして早くから琉球空手に通じていた。

「興武館」の館長(左3)は”武術交流”を重視していたため、よく団体を引き連れて台湾で活動していた。政治的、形式的な”交流外交”に馴染めない蘇氏は、武術研究の人生を選択することになる。
1978年、日本で「中国拳法の秘法」を出版する。著作の能力を得ることにより、蘇氏は雇われ師範、用心棒レベルから卒業することが出来た。

蘇氏には「無影脚」と呼ばれることがある。中・近距離から交叉法を用いて、相手の防禦を崩して蹴るため、ブロックは困難である。

1981年、蘇氏の父親の友人でもある。高森煌老師が日本を訪れ蘇氏の家に宿泊する。
高老師は蔡家拳(南拳)の大家であり、早期擂台賽の先達でもある。南拳の原理に通じているため、沖縄空手との関わりが深く、沖縄空手連盟から名誉九段を贈与されている。
蘇氏の才能を惜しみ内弟子にスカウトしたが、洪老師の立場もあって実現できなかった。
1985年、日本武道館で「日中武術交流会」が開催され、打ち上げパーディで形意拳の何福生老師と馬賢達老師と歓談する蘇氏。
何先生は「南京中央国術館」で馬先生の叔父、馬英図老師に八極拳を学んでいたので、馬老師は何老師に大師兄の礼を取っていた。
1989年、 陳家太極拳19世の陳小旺先生を東京のホテルに訪ねる。蘇氏は陳先生に太極拳の原理と「倒捲肱」の用法を尋ねたが、要点を得ず危うく組手になるところ、間一髪でことなきを得た。その後、わだかまりが解け、酒屋で飲食する陳先生と蘇氏。
1989年、日本剣道連盟副会長小沢丘先生(剣道九段)を訪ね、「三角規の法」について尋ねる。
小沢先生は「武専」出身、日本剣道を五段制から九段制に展開させた功労者であり、小野派一刀流の正統を継ぐ家系にある。
小沢先生に「人生は修行」の言葉を頂き、武術にかけた人生の重みを知る。
1983年、サンフランシスコにて武術演武のシュワイジャオ大王・常東昇老師を訪ね、舞台裏で常老師に形意連環拳の勁道と八卦掌のシュワイ法について尋ねる。
常東昇老師は「南京中央国術館」第三期・教授班の出身。卒業の間近に軍隊に徴集され、広東軍区で保安の軍職に就く。1949年蒋介石と共に台湾に渡り、警官学校や憲兵学校などの教官を勤め、少将の官階で退役する。退役に際し蒋介石総統より、国旗の青天白日旗を腰に締める栄誉を賜る。
1986年、蘇氏は常東昇老師の召喚で台湾に戻り、末期癌の常老師の自宅でシュワイジャオ、形意拳、八卦掌、太極拳、査拳及び武術哲理の教えを受ける。その3月後常東昇老師は逝去された。
常老師は名利を追わず、武術一筋を貫いてきた硬骨漢であり、その武芸の精巧さ、拳理の深さは流派様式の俗社会を超えるものである。
何故、常老師は弟子でもない蘇氏を台湾に呼び、最後の指導を蘇氏に残したのか、実に興味深いことである。
1986年、何福生老師が日本の武術団体の招聘で、東京で武術の指導を行っていた。蘇氏は何老師と同行の徐淑貞先生(徐文忠先生の長女)に食事を招待する。席上で2年後何先生が武術協会の公職を退職した後、蘇氏の招聘を受け日本で指導する約束を取り付けた。
1989‐1989年、徐文忠老師が日本の武術団体の招聘で一年間武術の指導を行ったが、帰国間近に
責任者が徐先生の貯蓄を持ち逃げた。徐先生の苦境を見かねた蘇氏は、道場生を動員して百余万円を集め徐老師に渡した。
徐老師は蘇氏の義侠的な行為に感謝し、蘇氏を「小兄弟」と呼び、心意六合拳、盤根、麟角刀、槍などのビデオテープを記念に残した。
映像資料「徐文忠老師の秘録」20分。
1989年、約束通り何福生老師を東京に招聘する。三週間の滞在で何先生は蘇氏の道場で形意拳を教える傍ら、蘇氏に形意三才剣と八卦太極拳などを教える。
蘇氏は型の覚えが速く、“覚えが速ければ忘れるのも速い”と言うことで、何先生の意向で映像資料「何福生老師の秘録」を残すことが出来た。

何福生老師は常東昇老師と同じく「南京中央国術館」第三期・教授班の卒業であり、同期には蒋浩泉老師がいる。この老師方は「南京中央国術館」の精鋭である。
? シュワイジャオ大王・常東昇老師は国民党・蒋介石総統の心腹であり、警官学校や憲兵学校 などの総教官である。 
? 西洋拳王・蒋浩泉老師は共産党・江沢民の信頼を得て、政治中枢である「中南海」警護の総教官である。
?品格兼優・何福生老師は教授班の班長であり、「南京中央国術館」第三期を首席で卒業する。
現在は、蒋浩泉老師だけがご存命で、ロサンゼルスのモントレパークで指導して居られる。

何福生老師は蘇氏の才能を惜しみ
関門弟子として蘇氏を選び、第四代の正式伝人として認める。
ある日、老師八卦太極拳の伝承について蘇氏の考えを聞いた。蘇氏は「温故知新」と答え、伝統の形式枠組みに止まらない、反復しない流体太極拳の草案を提示した。
何老師は、伝統の権威に追随しない蘇氏の心意気を賞し、これからは君たちの時代だ、悔いが残らないようにしっかりやれ。と快く答えた。

1992年、 フランスの武術雑誌Arts &
Combas Magazineに掲載した八卦掌のレポート。
フランスは投げ技に対する関心が高い。ヨーロッパ大陸には諸国が林立しているため、力に頼る打撃系武術よりも、力のバランスに重点を置いた投拿系の方が人気あるように思われる。
よって、EOEの螺旋八卦掌の技術と戦術が好まれる。

1) 1993年、フランスの武術雑誌Arts &
Combas Magazineにレポートを掲載
し、表紙を飾る。
レポートは武術の種別:
伝統武術・流派武術・現代武道・
擬似武術・格闘武術・武   術
を分析し、大きな反響を呼んだ。

2)フランスの内家拳セミナーで使用した
パンフレット

写真上、パリでの内家拳セミナー。
写真下、ボルドでの内家拳セミナー。

フランスの家のドアは大抵3−4個のカギ
が備え付けられている。防犯や自衛は自己責任の意識がよく行き渡っていて、運動と護身に武術や武道或いは格闘技を学ぶ風気が盛んである。人口が数十万の町でも道場などが多数にあり、どの道場も数十、数百人の練習生がいて、日本やアメリカとは比べられない盛況である。蘇氏は5年間に渡ってフランスでセミナーを行い、多くの練習生の指導にあった。


1993‐1995年、フランスのセミナーあとイスラエルに立ち寄って内家拳セミナーを行っていた。3回目のセミナーの時、イスラエル軍クラブ・マガの主任教官(写真サングラスの男)が視察に来ていて、練習生の中にも二人の弟子が入り込んでいた。セミナーあとこの事実を知り、蘇氏はクラブ・マガの技を見せてもらい、そしてクラブ・マガの創始者 Imi Lichtenfeld 氏の表敬訪問を申し込んだ。翌日、30分だけなら合ってもよいの許可を貰い、Imi先生とお会いすることになった。
会談中、蘇氏は自らの武術歴と交叉法をImi先生に
ご覧にいれ、先生の関心を引き出すことに成功した。Imi先生はクラブ・マガを創出できたパッションの武人であり、すぐさま近くの公園に場所を移して、3−4時間も熱心にクラブ・マガの原理を指導した。その翌日もImi先生に呼ばれ朝食をともにし、サイン入りの著書を頂いた。その後日Imi先生の高弟Eyal Yanilov氏は、蘇氏のセミナーにも参加した。
写真1は、Eyal Yanilov氏との記念写真。


Eyal Yanilov - IKMF Head Instructor
Website:http:// www.krav-maga.com
E-mail: eyal@krav-maga.com

2001 年以降、定期的マイアミでセミナーを行う。

Chinese Martial Internal Arts
E-MAIL:
info@chinesemartialinternalarts.com

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